丸岡城(まるおかじょう) 後編
福井県坂井市の丸岡城の続きです。

天守2階部分です。1階部分の1/3の大きさで、1階部分を土台として建てられ1階部分との通し柱はありません。
またまた急な階段を上がると、3階部分(最上階)に到着。

2階部分と同じ大きさです。中央の柱は、こちらも2階部分とはつながっていません。
3階部分には周りに欄干のある縁側があります。

天守の屋根は石瓦です。

福井県産の緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)・笏谷石(しゃくだにいし)を石工が加工した瓦で葺かれています。
鬼瓦も笏谷石の彫刻です。

写真の鬼瓦は東側のもので、口をあいた阿形(あぎょう)です。(西側は口を閉じた吽形(うんぎょう))
天守登り口にある鯱(しゃち)です。

もともとは木彫銅板張りでしたが、1940~1942年の修理の際に戦禍中で銅板の入手が困難だったため、石瓦と同じ材質で作りかえられましたが、1948年の福井大地震で落下、保存されています。(現在の鯱は1952~1955年の修理の際に、元の木彫銅板張りに復元されています)
天守の南東にある雲の井です。

合戦の際に、この井戸から大蛇が現れ、霞を吹きかけて城を隠して危機を救ったといわれ、別名・霞ケ城の由来になっています。
天守登り口近くにある雲井龍神社です。

有馬氏が城主の時に守神としてまつったそうですが、明治維新で荒廃、1965年に再興されたものです。
天守登り口近くにある「お静慰霊碑」です。

天守造営の際に人柱になったお静を慰霊しています。
<丸岡城(まるおかじょう)>福井県坂井市丸岡町霞町1-59
坂井市丸岡観光協会 丸岡城特集のページ
今は何位かな? 押してみてね!


天守2階部分です。1階部分の1/3の大きさで、1階部分を土台として建てられ1階部分との通し柱はありません。
またまた急な階段を上がると、3階部分(最上階)に到着。

2階部分と同じ大きさです。中央の柱は、こちらも2階部分とはつながっていません。
3階部分には周りに欄干のある縁側があります。

天守の屋根は石瓦です。

福井県産の緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)・笏谷石(しゃくだにいし)を石工が加工した瓦で葺かれています。
鬼瓦も笏谷石の彫刻です。

写真の鬼瓦は東側のもので、口をあいた阿形(あぎょう)です。(西側は口を閉じた吽形(うんぎょう))
天守登り口にある鯱(しゃち)です。

もともとは木彫銅板張りでしたが、1940~1942年の修理の際に戦禍中で銅板の入手が困難だったため、石瓦と同じ材質で作りかえられましたが、1948年の福井大地震で落下、保存されています。(現在の鯱は1952~1955年の修理の際に、元の木彫銅板張りに復元されています)
天守の南東にある雲の井です。

合戦の際に、この井戸から大蛇が現れ、霞を吹きかけて城を隠して危機を救ったといわれ、別名・霞ケ城の由来になっています。
天守登り口近くにある雲井龍神社です。

有馬氏が城主の時に守神としてまつったそうですが、明治維新で荒廃、1965年に再興されたものです。
天守登り口近くにある「お静慰霊碑」です。

天守造営の際に人柱になったお静を慰霊しています。
<丸岡城(まるおかじょう)>福井県坂井市丸岡町霞町1-59
坂井市丸岡観光協会 丸岡城特集のページ
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丸岡城(まるおかじょう) 前編
福井県坂井市の丸岡城へ、行ってきました。

1576年に柴田勝家の甥・勝豊により築城された平山城です。霞ヶ城(かすみがじょう)ともよばれています。1871年の廃藩置県により廃城となり天守以外は解体、1901年に残った天守を丸岡町が買い戻しています。内堀は大正中期から昭和初期に埋められていますが、外堀は用水路として一部が残っています。
天守へ向かう途中に、牛ケ島石棺があります。

4世紀代の石棺と考えられている刳抜式(くりぬきしき)舟形石棺です。丸岡町牛ヶ島地区の白山神社近くの御野山古墳から出土したもので1970年に現在地に移されています。
さらに進むと丸岡城八幡神社があります。

丸岡城の鎮守社として築城の際に創建されたようです。
天守です。現存12天守の1つで重要文化財です。
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1948年の福井大震災で倒壊しましたが、倒壊材を元の通り組み直し1955年に修復再建されています。
こんな記念撮影ができる場所もあります!

柴田家の家紋は「二つ雁金(かりがね)」と言うそうです。
天守の1階部分です。

年表や資料、復元模型などが展示されています。
1階部分南側にある石落とし・狭間です。

外から見ると写真中央部分が石落としです。

2階部分へは急な階段を上らないと行くことができません。

後編に続きます。
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1576年に柴田勝家の甥・勝豊により築城された平山城です。霞ヶ城(かすみがじょう)ともよばれています。1871年の廃藩置県により廃城となり天守以外は解体、1901年に残った天守を丸岡町が買い戻しています。内堀は大正中期から昭和初期に埋められていますが、外堀は用水路として一部が残っています。
天守へ向かう途中に、牛ケ島石棺があります。

4世紀代の石棺と考えられている刳抜式(くりぬきしき)舟形石棺です。丸岡町牛ヶ島地区の白山神社近くの御野山古墳から出土したもので1970年に現在地に移されています。
さらに進むと丸岡城八幡神社があります。

丸岡城の鎮守社として築城の際に創建されたようです。
天守です。現存12天守の1つで重要文化財です。
.jpg)
1948年の福井大震災で倒壊しましたが、倒壊材を元の通り組み直し1955年に修復再建されています。
こんな記念撮影ができる場所もあります!

柴田家の家紋は「二つ雁金(かりがね)」と言うそうです。
天守の1階部分です。

年表や資料、復元模型などが展示されています。
1階部分南側にある石落とし・狭間です。

外から見ると写真中央部分が石落としです。

2階部分へは急な階段を上らないと行くことができません。

後編に続きます。
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天龍寺(てんりゅうじ)
福井県吉田郡永平寺町の天龍寺へ、行ってきました。

1653年に越前松岡藩初代藩主の松平昌勝が祖母の菩提寺として創建しています。現在は曹洞宗大本山・永平寺の末寺となっています。
参道を進むと山門が見えてきます。

山門の手前にある芭蕉塚です。

1689年に松尾芭蕉が奥の細道の道中で、旧知の大夢(だいむ)和尚に会うために立ち寄っています。1844年、松尾芭蕉150回忌の際に芭蕉を慕う地元の人々によって建てられた塚です。
山門を入るとある芭蕉句碑です。

「物書きて 扇引きさく 余波哉(なごりかな)」。金沢から旅を一緒にしてきた立花北枝(ほくし)と別れるときに詠んだ句です。
別れの場面をあらわした「余波の碑」があります。

「道すがら句を書きとめてきた扇を引き裂くように、夏から秋になって扇をしまうように、それは心痛む別れなのだ」という意味だそうです。
山門を入って右手にある本堂です。

本堂に向かって左手にある僧堂(枯木堂)です。

座禅道場になっています。
山門を入って正面奥にある御像堂(ごぞうどう)です。

松平昌勝公像をまつっています。
<天龍寺(てんりゅうじ)>福井県吉田郡永平寺町松岡春日1-64
天龍寺 公式ページ
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1653年に越前松岡藩初代藩主の松平昌勝が祖母の菩提寺として創建しています。現在は曹洞宗大本山・永平寺の末寺となっています。
参道を進むと山門が見えてきます。

山門の手前にある芭蕉塚です。

1689年に松尾芭蕉が奥の細道の道中で、旧知の大夢(だいむ)和尚に会うために立ち寄っています。1844年、松尾芭蕉150回忌の際に芭蕉を慕う地元の人々によって建てられた塚です。
山門を入るとある芭蕉句碑です。

「物書きて 扇引きさく 余波哉(なごりかな)」。金沢から旅を一緒にしてきた立花北枝(ほくし)と別れるときに詠んだ句です。
別れの場面をあらわした「余波の碑」があります。

「道すがら句を書きとめてきた扇を引き裂くように、夏から秋になって扇をしまうように、それは心痛む別れなのだ」という意味だそうです。
山門を入って右手にある本堂です。

本堂に向かって左手にある僧堂(枯木堂)です。

座禅道場になっています。
山門を入って正面奥にある御像堂(ごぞうどう)です。

松平昌勝公像をまつっています。
<天龍寺(てんりゅうじ)>福井県吉田郡永平寺町松岡春日1-64
天龍寺 公式ページ
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柳廼(やなぎのやしろ)社
福井県大野市の柳廼社へ、行ってきました。

1882年に大野藩旧藩士たちが第7代大野藩主・土井利忠公をまつるため創建、1911年に現在地に移転しています。
鳥居を入ると参道の左手に「お馬屋池」があります。

大野城の堀の一部が残ったもので、江戸時代に馬場と厩舎があり馬の飲用水や身体を洗うのに使われていたことから名付けられています。
参道を進むと二の鳥居があります。

二の鳥居を入ると左手にある大野市民俗資料館です。

1889年に大野治安裁判所として建築され、1968年まで裁判所として使用されていたもので、同年現在地に移築し資料館としています。
参道の正面にある拝殿です。

祭神は、土井利忠公です。
拝殿に向かって右手にある境内社です。

何がまつられているかは未確認です・・。
境内社に向かって右手に旧拝殿が残されています。

1882年創建当時に建てられものです。
<柳廼社(やんぎのやしろしゃ)>福井県大野市城町2
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1882年に大野藩旧藩士たちが第7代大野藩主・土井利忠公をまつるため創建、1911年に現在地に移転しています。
鳥居を入ると参道の左手に「お馬屋池」があります。

大野城の堀の一部が残ったもので、江戸時代に馬場と厩舎があり馬の飲用水や身体を洗うのに使われていたことから名付けられています。
参道を進むと二の鳥居があります。

二の鳥居を入ると左手にある大野市民俗資料館です。

1889年に大野治安裁判所として建築され、1968年まで裁判所として使用されていたもので、同年現在地に移築し資料館としています。
参道の正面にある拝殿です。

祭神は、土井利忠公です。
拝殿に向かって右手にある境内社です。

何がまつられているかは未確認です・・。
境内社に向かって右手に旧拝殿が残されています。

1882年創建当時に建てられものです。
<柳廼社(やんぎのやしろしゃ)>福井県大野市城町2
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大野城
福井県大野市の大野城へ、行ってきました。

1575年に織田信長から領地を貰った金森長近が11576年に建設を始め1580年に完成したと伝えられています。写真は南登り口の城門です。
20分ほど登ると本丸の城門に着きます。

本丸の城門を入ると天守が見えてきます。

柵の中は「お福池」で、金森長近の正室・お福にちなんで名付けられています。どこからも水が流れ込むところがないのに、池の水が枯れたことがないそうです。
1968年に再建された天守です。

天守の近くにある「亀山頂上」の石碑です。

天守は海抜249mの亀山に建てられています。
天守の近くにある権現宮跡です。

天守の中は資料館になっています。

歴代城主の遺品などが展示されています。
天守から見た景色です。

金森長近公像です。

北登り口の途中にある亀山観音石仏(西国33所石仏)です。

<大野城(おおのじょう)>福井県大野市城町3-109
大野城 公式ページ
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1575年に織田信長から領地を貰った金森長近が11576年に建設を始め1580年に完成したと伝えられています。写真は南登り口の城門です。
20分ほど登ると本丸の城門に着きます。

本丸の城門を入ると天守が見えてきます。

柵の中は「お福池」で、金森長近の正室・お福にちなんで名付けられています。どこからも水が流れ込むところがないのに、池の水が枯れたことがないそうです。
1968年に再建された天守です。

天守の近くにある「亀山頂上」の石碑です。

天守は海抜249mの亀山に建てられています。
天守の近くにある権現宮跡です。

天守の中は資料館になっています。

歴代城主の遺品などが展示されています。
天守から見た景色です。

金森長近公像です。

北登り口の途中にある亀山観音石仏(西国33所石仏)です。

<大野城(おおのじょう)>福井県大野市城町3-109
大野城 公式ページ
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