松陰(しょういん)神社 後編

山口県萩市の松陰神社の続きです。

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参道を進むと二の鳥居に着きます。

二の鳥居を入って右手にある手水舎です。
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二の鳥居を入って正面にある拝殿です。
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1940年に起工し1942年に竣工しましたが、戦争中のため遷座が行われず、遷座したのは情勢が落ち着いた1955年です。

本殿です。
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祭神は、吉田矩方命(よしだのりかたのみこと=吉田松陰)で、松陰が愛用していた赤間硯と松陰の書簡をご神体としてまつっています。

拝殿に向かって右手にある勧学堂です。
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元は品川弥二郎生誕地(山口県萩市、現在は石碑のみ)あり、品川神社といわれていましたが、1985年に現在地に移築改修し、祭神の品川弥次郎命は松門神社に合祀し、松陰の分霊をこの祠にまつっています。品川弥次郎は15歳で松下村塾に入り、後に内務大臣を務めています。

二の鳥居に向かって左手に松門神社の鳥居があります。
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松門神社です。
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1956年創建です。旧松陰神社の社殿で、久坂玄端・高杉晋作・伊藤博文・山形有朋・木戸孝允など松下村塾の門下生52人と、三宅島に流罪となりながらも松陰の遺書を17年間肌身離さず守り抜いた沼崎吉五郎を加え、計53柱を祭神としています。

参道の途中、右手にある宝物殿「至誠館」です。
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沼崎吉五郎が守り抜いた松陰の遺書・留魂録(りゅうこんろく)が展示されています。他にも遺品や資料が展示されています。

参道の途中、左手にある吉田松陰歴史館です。
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松陰の生涯を70体以上のろう人形で再現しています。

一の鳥居の手前、左手にある立志殿です。
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参集殿を兼ね講演や研修会などを開催する場になっています。

<松陰神社(しょういんじんじゃ)>山口県萩市椿東1537
松陰神社 公式ページ
JR萩駅から萩循環まぁーるバス東回りコースで松陰神社前バス停下車徒歩約1分

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松陰(しょういん)神社 前編

山口県萩市の松陰神社へ、行ってきました。

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1890年に吉田松陰の実家・杉家の人々の手で邸内に松陰の霊をまつる土蔵を造りの祠を建立したのが前身で、1907年に松下村塾出身の伊藤博文・野村靖が神社創建を請願、許可され創建しています。写真は一の鳥居です。

一の鳥居から進むと左手にある石碑です。
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1859年に松陰が家族にあてた遺書の中の句で、「親思ふ こころにまさる 親ごごろ けふの音づれ 何ときくらん」と刻まれています。

さらに参道を進むと左手に松下村塾があります。
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1842年に松陰の叔父・玉木文之進(たまきぶんのしん)が開いた私塾で、少年だった松陰が入門、その後、松陰が指導した短い時期の塾生から幕末・明治期を主導した人材を多く輩出しています。

別の角度から見た松下村塾です。
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幕末の建物を若干補修してそのまま保存されています。明治日本の産業革命遺産として世界遺産に登録されています。

松下村塾の講義室です。
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松陰の石膏像と肖像画、机が置かれています。

松下村塾から少し進むと杉家旧宅があります。
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1854年に松陰がアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して捕らえられ萩に送られ獄にいれられます。翌年に釈放されますが実家の杉家で謹慎生活を送ります。

杉家旧宅です。
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杉家旧宅の内部の様子です。
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214㎡ある大きな建物です。

東側にある3畳半が松陰が謹慎した部屋(幽囚室(ゆうしゅうしつ))です。
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後編に続きます。

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萩城跡(はぎじょうあと)

山口県萩市のの萩城跡へ、行ってきました。

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関ヶ原の戦いで西軍の総大将だったことから周防国(山口県防府市・岩国市・光市など)・長門国(山口県下関市・萩市・長門市など)の2ヶ国に減封された毛利輝元が1604年に築いた城です。指月山(しづきやま)の山麓にあることから指月城ともよばれています。

二の丸南門にある毛利輝元像です。
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豊臣政権の五大老の一人でした。関ヶ原の戦い後は剃髪し、嫡男の毛利秀就(ひでなり)に家督を譲り、秀就が初代長州藩主となりますが、実質的なトップとして君臨し続けています。

二の丸南門付近の様子です。
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二の丸南門近くにある塩矢倉跡です。
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二の丸から本丸へ続く橋です。
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橋の奥が本丸門跡です。

内堀と天守閣跡(写真中央左)です。
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本丸跡は指月公園になっています。

二の丸門の南にある旧厚狭毛利家(あさもうりけ)萩屋敷長屋です。
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厚狭毛利家は、毛利元就(もとなり)の五男・毛利元秋(もとあき)を始祖とする毛利家の一門です。

厚狭毛利家萩屋敷長屋です。
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明治維新前後に主屋や庭園などは解体され長屋のみが残っています。1856年に建築されたもので重要文化財です。

長屋に展示されていた萩城の復元模型です。
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同じく展示されていた解体前の萩城天守の写真です。
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<萩城跡(はぎじょうあと)>山口県萩市堀内1-1
JR萩駅から萩循環まぁーるバス西回りコースで「萩城跡・指月公園入口 北門屋敷入口」バス停下車徒歩5分

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龍福寺(りゅうふくじ) 後編

山口市の龍福寺の続きです。

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本堂に向かって左手にある龍福寺資料館です。大内義隆画像、書状、瓦などが展示されています。

資料館入口左手にある大内義隆像です。
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参道左手にある地蔵像です。
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参道左手にある子育。水子地蔵尊です。
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参道左手にある大内義隆主従の供養塔です。
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写真右の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は大寧寺(たいねいじ、山口県長門市)にある義隆の墓を原寸大に複製したもので、十三重石塔は義隆に従って戦死した忠臣等の供養のために建立したものです。

山門を入って左手にある宝現霊社です。
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大内氏の祖、琳聖太子(りんしょうたいし)から31代の大内義隆に至る歴代をまつる社で、龍福寺の鎮守として建立されています。

宝現霊社に向かって右手にある豊後岩です。
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大内氏は歴代政庁をこの地に置き、来訪の客をもてなすため、当時は珍しい蘇鉄を植え、豊後の国(大分県)から岩を船で運び邸前に壮麗な築庭を造りました。大内氏滅亡後は荒廃して豊後岩だけが残り往時の跡を残しています。ほぼ境内全域が大内氏館跡として国の史跡に指定されています。

<龍福寺(りゅうふくじ)>山口市大殿大路119
JR山口駅から山口市コミュニティバスで八坂神社前バス停下車徒歩約5分、JR上山口駅から徒歩約9分

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龍福寺(りゅうふくじ) 前編

山口市の龍福寺へ、行ってきました。

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1206年に大内氏第18代・大内満盛(おおうちみつもり)が開基とした瑞雲寺が始まりで、1454年に改称、1551年に謀反(大寧寺(だいねいじ)の変)による兵火で焼失したものを1557年に毛利隆元(もうりたかもと)が、大寧寺の変で自害した大内義隆(おおうちよしたか)の菩提を弔うため現在地に復興しています。

参道にはモミジの木が両側に植えられています。
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秋は紅葉で参道が赤くなりそうです!

参道を進むと左手にある「ザビエル布教の井戸」です。
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1550年にフランシスコ・ザビエルが大内義隆に布教の許可を得て、この辺りにあった井戸のそばで布教をしたといわれています。(井戸は再現したもの)

参道の正面にある山門です。
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山門から参道を見た様子です。
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山門から進むと右手にある鐘楼堂です。
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さらに参道を進むと右手にある大内義隆辞世の句碑です
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金剛経の経文を引用し「討つ人も討たるる人も諸ともに如露亦(にょろやく)如電応作(にょでんおうさ)如是観(にょぜんかん)」(敵も味方も人の命は露のようにまた稲妻のようにはかない)とよみ45歳で自刃したそうです。

参道の正面に本堂(釈迦堂)が見えます。
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本堂です。
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大内氏の氏寺であった興隆寺(山口市)の釈迦堂を1883年に移築したもので、1479年建築で重要文化財です。本尊は釈迦如来像です。

後編に続きます。

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